コロナ禍は「歴史を学ぶ」チャンスでもある【中野剛志×適菜収】
中野剛志×適菜収 〈続〉特別対談第4回
中野:昨年、私と適菜さんと佐藤健志さんで鼎談して、藤井聡氏のコロナを巡る言説を批判したでしょう。すると、「同じ保守なんだから、そんなことで内輪もめせずに、仲よくすればいいのに」みたいな余計な世話を焼きたがる人が出てくるわけです。確かに、徒党なり運動なりが大事なんだったら、その通りでしょう。しかし、徒党や運動で群れることを優先するような「私立」ができない精神なら、思想だの文学だのは一切やめた方がいいですね。
適菜:『表現者クライテリオン』が失敗した原因は、編集者と執筆者の区別をきっちりつけなかったからではないでしょうか。通常、原稿には編集による選別、校正、校閲といった過程が入りますが、編集者と執筆者が一体化すれば、同人誌になってしまう。雑誌としてのバランスや、多様な意見を載せるのではなく、編集長の企画の方針に応じるような人ばかりに原稿を依頼していたら、どんどん偏ったものになっていく。公私混同ということです。
中野:西部先生がやっていたときも、執筆依頼には企画の方針が書いてあって、西部先生のいつもの持論がダーッと書いてはありました。でも、末尾には「こういう時代状況も参考にしつつ、ご自由に筆をふるってください」ぐらいのことしか書いていなかったですね。
適菜:あのときは編集者がいて、編集長がいて、西部さんが顧問だったわけですよね。でも、今は編集長が最前線に出てきて、執筆から対談からコラムから、すべてをやっている。要するに、自分の主張を垂れ流す媒体にしてしまった。そういうことはメルマガでやればいいんです。
中野:ただ、西部先生の『表現者』の場合も、執筆依頼には確かに「ご自由にお書きください」ってあったけれども、それを真に受けて、実際に西部先生の主張とまったく違うことを書くような大胆な執筆者は少なかったですね(笑)。西部先生の持論に忖度するような内容が多かったと思いますよ。そうやって忖度するもんだから、徒党がまとまるわけ。確かに、思想運動としては見事に成功している(笑)。
ところが、西部先生って困った人で、自分で思想運動をやっていながら、忖度された原稿には退屈していた感じでしたよ。確かに、執筆者の個性が消えた忖度原稿が面白いわけがない。でも、それは、思想運動なんかやってるのが悪いんですよ。徒党や運動の中では、思想はあり得ないという、小林秀雄が正しかったことを証明するような話です。
適菜:運動は必ず劣化します。指導者に忖度しているうちに周辺がイエスマンばかりになり、まともな人は離れていく。
中野:まともな人が離れて運動が瓦解するようでは、運動あるいは「政治」としては失敗でしょう。しかし、運動から離れることで、その人の「思想」は、逆に成功したと言えます。
そこで一つ、また、別の難しい論点が出てくるのです。というのも、徒党を組むと思想は確かに駄目になるが、その一方で、前回の対談でも話題になったように、初めは師匠を信じて師弟関係を結ばないと、学問の暗黙知は獲得できないというところがある。
この徒党を組むことと、徒弟制に入ることとの違いのどこに一線を引くかは、意外と難しい。というのも、こちらが未熟な段階で小賢しく「先生、それ違いますよ」と言って、師弟関係を解消してしまったら、もうこちらの成長はないわけです。そうすると、初めは師匠を信じてみないといけない。だけれど、世の中には、思想運動や学派という猿山のボス猿になりたいという野心をもっている大学教授や知識人がいるわけですよ。よく学生や助教に対して威張ったり、いたぶったり、怒鳴り散らしたりする大学教授がいますが、そういう手合いですね。そういう学者のクズは、「思想」ではなく、学界や言論界の「政治」をやっているのです。
そんな学者のクズを不運にも師匠として信じてしまった結果、その師匠に操られ、師匠に追従していくうちに、有望な学生の思想の芽が潰れてしまう。そういうことも多いのではないでしょうか。
あるいは、学者がお互い切磋琢磨し、学問を高めていくためには、科学者の共同体に入る必要がある。学者同士の交流は極めて大事ですし、それこそ、「朋有り遠方より来たる、亦た楽しからずや」というわけで、楽しい。だから、孔子の周りにも人が集まった。その意味では、優れた学者を慕って、あるいはお互いを高め合うために学者が集まって「学派」が出来ることは、悪いことではない。悪いどころか、良いことです。ところが、この「学派」というものも、よほどうまくやらないと、単なる徒党へと堕落する危ういものですね。というのも、教祖に依存して安心したいとか、徒党を組みたいという気質の人間もまた、少なからずいるからです。
学派内に、師匠に盲従したい人間や徒党を組みたがる人間が多くなった瞬間に、学派もろとも学問も堕落していく。実際、学派なるもののほとんどは堕落していて、徂徠と蘐園学派が違うとか、孔子の本当の教えと朱子学が違うとか、ヘーゲルとヘーゲル主義は違うとか、いくらでもそういう例はある。学問は腐りやすい。小林も書いていますよね。本当の思想は非常に腐りやすいというか、もろい。なぜ、もろいかというと、個人の生と密接不可分だからです。
適菜:小林はこう言います。《私達は、歴史に悩んでいるよりも、寧ろ歴史工場の夥しい生産品に苦しめられているのではなかろうか。例えば、ヘーゲル工場で出来る部分品は、ヘーゲルという自動車を組み立てる事が出来るだけだ。而もこれを本当に走らせたのはヘーゲルという人間だけだ。そうはっきりした次第ならばよいが、この架空の車は、マルクスが乗れば、逆様でも走るのだ》(「蘇我馬子の墓」) 。ヘーゲルはヘーゲルという生身の人間の体質の中にしかない。
中野:だから、徒党を組んで学派として堕落するのを回避しつつも、暗黙知を体得するために共同体的な師弟関係を結ぶというのは、本当に難しい。本物の高等教育の場合は、学問や教育の微妙なルールが非常に発達をしていて、学派が徒党へと堕落するのを防いでいるように思います。優れた大学には、そういうルールが大学の伝統として確立されているものです。
例えば、「指導」と称して、学生に威張ったり、怒鳴り散らしたりするのは、完全なルール違反です。本物の大学は、そういうアカハラ(アカデミック・ハラスメント)野郎を絶対に許しません。学問を堕落させ、教育を不可能にする危険な存在だからです。
優れた学問の師匠は、弟子をもちろん甘やかしはしないし、厳しい指導をするけれども、いたぶったり、怒鳴り散らしたりといったハラスメントはしませんね。逆に、思想運動の指導者は、ハラスメントによって徒党をまとめあげる(笑)。
■何かを子供に気付かせる教育者としての資質
適菜:大学の教授だけではなくて、予備校の講師や小中学校の先生にも優れた人はいると思います。私の経験で言っても、学校の教師とかみんなバカに見えたけど、例外的に1人か2人は信頼できる先生がいるわけです。高校の先生で20人くらいが何かの教科の担当になったとして、1人か2人は「この人信用できるな」「尊敬できるな」と感じる人がいる。
中野:いますね。20人のうち1人か2人という確率は、大学でも同じですけどね。
適菜:そういう人は何かを子供に気付かせる教育者としての資質を持っていたのかもしれない。児童や生徒や学生は、なんとなくそれを感知する。
中野:本当の教育というのは、非常に難しいものですね。小林が面白がっているように、孔子の教育法は、「君、本当は最初から分かってたんじゃないのかね」と気付かせるように、つついて出してあげるような感じだそうです。それが、本当の指導とか教育というものなのでしょう。それでつついたら出てきたものは、もちろん、孔子の思想と同じではなくて、その人固有のもので、その人の経験に根付いたもの。でも、それこそが、本当の思想である。そういうことなんでしょうね。だけど、そうすると教育とか啓蒙は、いかに難しいかという議論になってくる。啓蒙の難しさについて、小林がこんなエピソードを書いていました。
ある日、尾崎行雄が新聞記者になったので、福沢諭吉のところに挨拶に行った。すると福沢が「君は誰のために書くつもりなのかね?」って聞いてくるので、尾崎は「私は、天下の識者のために書くつもりです」と胸を張って答えた。そうしたら、福沢は鼻くそをほじりながら「ほう、そうかね。俺はいつも猿に読んでもらうつもりで書いているよ」なんて言ったので、尾崎は「なんて、けしからんやつだ」と怒って帰っちゃった。福沢が、「上から目線」で人を見下しているとでも思ったんでしょうね。普通は、そう受け取る。でも、小林はそうは取らず、「恐らく彼の胸底には、啓蒙の困難についての、人に言い難い苦しさが、畳み込まれていただろう。そう思えば面白い話である」と書いて、いたく感銘をうけているわけですよ。
適菜:いい話ですね。その話で思い出したのですが、ヘーゲルがゲーテに会いに行ったんです。ゲーテは当時のヨーロッパでも有名人です。それで若いヘーゲルは意気揚々と出かけて行って、ゲーテの前で自分が編み出した弁証法の自慢をするんですね。すると、福沢が鼻くそほじくったぐらいの勢いで、「そうした精神の技術や有能性がみだりに悪用されて、偽を真とし、真を偽とするために往々にして利用されたりしなければいいのだがね」とぺしゃんといなすんです。ヘーゲルはムキになって、「それは精神の病める人たちだけがやることです」と言うと、ゲーテは「それなら自然研究の方がよっぽどましだな。そんな病気にかかりっこないからです」「私は、多くの弁証法患者は、自然を研究すれば効果的に治療できるだろうと確信していますよ」と。ゲーテにとってヘーゲルは反論の対象ではなくて治療の対象だった。これは私が大好きな話です。
中野:古今東西変わらないものですね。
(続く)